母の祈りにより牧師になりました
豊橋二川福音教会 牧師 見城 孝志(けんじょうたかし)
「母は涙乾く間なく祈ると知らずや。」と、讃美歌510番にありますが、 私の母はまさにこの歌そのままの人でした。 信仰を持ってから、父と12人の子供たちのために、涙を流して祈ってきたのです。
製材所を経営していた父は、酒を飲んでは遊び、仕事がうまくいかないと八つ当たりして、母を困らせ、子供たちを怖がらせました。その上お金儲けのことになると、人を押しのけても、というところがあり、母にはそれが耐えがたいことでした。ちょうどそのころ、近くの教会で牧師夫妻が日曜学校を開いていました。母はその様子を見て、何と美しい姿だろうと あこがれたのです。身なりはさほどよくなくても、夫婦がとても仲良く、子供たちと無邪気に遊んでいる顔は喜びに輝いているようで、ああ私もあんな家庭がほしい、と思ったそうです。
それがきっかけで、母は教会に導かれ、クリスチャンになりました。兄弟で上から二番目の私が6歳のときのことです。それから父がクリスチャンになるまでの6年間、離婚という言葉まで出して迫害する父のために、母は祈り続けていたのです。
父は信仰を持つと、まったく別人になりました。酒も煙草もやめ、けんかもせず、熱心に聖書を読んで祈る人に変えられたのです。私はそれを見て、神様は本当におられるんだなとわかりました。そして、小学校6年のとき、私も洗礼を受けました。それから家族そろって教会に通い、怖くて近寄れなかった父とも信仰の話をするのが楽しみになりました。
ところが、高校2年生になったあたりから、教会よりも世の中に魅力を感じるようになりました。運動会の後で、誘惑に負けてついに酒を飲んでしまってからは、教会の敷居が高く感じられて、まったく行かなくなってしまいました。
学校のほうも、家族と顔を合わせたくないから出席はしていましたが、授業はほとんど寝ていて、 酒を飲んでは謹慎処分になってしまうありさまでした。そして、なんとか卒業だけはしたものの、製材所の手伝いで働くのがいやで、逃げ出しては遅くまで遊び回っていました。
私の様子がおかしくなりだした頃から、両親は私のことを祈っていたようですが、決定的に教会から離れてからは、二人で毎朝5時半に起きて、教会に出かけて1時間ほど祈ってから一日の仕事を始めていました。雨の日も雪の日も、私が悔い改める19歳の春まで、それはずっと続けられました。
母は何かあるとすぐに私の部屋に入って祈る人でした。部屋から祈りの声が聞こえてくるのですが、泣きながら私のために祈っているのです。それを思うと、遊んでいてもいつも心は苦しかったです。自分は何でクリスチャンの子に生まれたのだろうか。普通の家だったらもっと気楽に遊べたのにと 考えていました。
けれども、ついにのっぴきならない状態に追い込まれることになりました。ある事件を通じて私も自分の惨めで醜い状態に気づいて、このままではいけないと決心することができました。両親と牧師夫人の前で、罪を告白しますと、あれだけ逆らえなかった誘惑に勝てるように新しく自分が作りかえられたのです。それ以来、今日まで守られているわけです。
私は12人兄弟の次男ですが、現在は12人みんなイエス様を信じています。そのうち、イエス様の恵みによって、私を含めて牧師は3人、牧師婦人は3人で、イエス様のお仕事にも携わらせていただいています。自分はもう教会には帰れないと思っていたのに、立ち返ることができたのは、神様が母の犠牲的な愛の祈りを見て、聞いてくださったからだと思います。自分の経験から言えることは、祈りがすべてだと思います。私を救ってくださったイエス様は、あなたもあなたの家族も救うことができると信じています。この素晴らしいイエス様を是非お知りになってください。