令和元年8月4日週報より

 今日の教会が失ってきたものを、具体的に思い出してみたいと思います。まず第一に、キリストの臨在をあげましょう。主がともにいて下さるという確信がありません。「主よ、主よ」と、御名を呼ぶことがありません。頭の信仰であって、心の信仰ではありません。考える信仰は、服従への行動を生み出しません。第二に、自分の罪に気づいていないということです。主の臨在の聖なる恐れを知らないのです。自分の罪に対する恐れと絶望がないならば、十字架の贖いが確信となりません。「私は罪深い人間」というペテロの言葉は、静かな言葉ではありません。涙と絶望と、恐怖の叫びであったのです。

ああ、私は、唇の汚れた者、、、しかも万軍の主である王をこの目でみたのだから。 〔イザヤ書6章5節〕

〔金田福一著 霊想の糧より〕