キリスト者が羊に例えられているのは、他を攻撃しないからです。彼の平和な属性は、キリストの庇護と支配の下にあってこそ、保たれていくのです。人の悪口を言い始めた時、彼はすでにキリストの羊から脱落しかけているのです。「迷える羊」と言う言葉から感じられる印象は、可憐さ哀れさですが、実は全く違います。羊が群れから脱落する理由の多くは自我によるのです。彼は次第に肉的な本性を回復し、かつて失った凶暴な狼の性質に返りつつあるのです。「迷える羊」の収容と救いは、決して美しきロマンではありません。キリストが十字架にかかり、血を流すことなしに、それはなされなかったのです。
誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷いでたとしたら、その人は九十九匹を山に残して迷った一匹を捜しに出かけないでしょぅか。〔マタイ18:12〕