令和元年9月8日週報より

 「確かさ」は、私達の側の「信仰」にさえあるものではございません。考えてみれば、「信仰」というものほど、不確かなものはありません。こちら側のことは、すべて「自力」にすぎないからです。しかし、イエス様は来てくださいました。不確かな、「信仰」と言う名の「自力」を抱いて動揺していたこの私が、イエス様のみ手の中に入れられていると、ある日、気ずかせて下さいました。自分はどんなに不確かな存在であっても、もう自分を見ないで、共に居て下さる主をほめることによって、いつでも平安でいられるように、主がして下さいました。確かさとは、主がともにいて下さることにすぎなかったのです。


 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。〔ヨハネ15章9節〕

〔金田福一著 霊想の糧より〕