真の謙遜は、罪の自覚から生まれます。罪の自覚の上に立たない謙遜は、偽善か自己満足にすぎません。罪の自覚のない者には、キリストの十字架の意義はわかりません。おのれの罪におののく者にのみ、十字架による罪の赦しの感動は訪れるのです。そして、罪の自覚をもたらすものもまた、生けるキリストの救いのみわざなのです。他から学ぼうとしてやまない謙遜さも、おのれの罪を自覚すればこそです。おのれに罪を犯した者をも赦して、叱り得ない愛情もまた、おのれの罪を知ればこそです。おのれの罪を自覚することなしに、キリストを聖とすることはできません。聖徒とは、キリストを聖とする人です。
私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの計りがたい富を異邦人に宣べ伝え、、〔エペソ3章8節〕
〔金田福一著 霊想の糧より〕