私は、イエス様が何をして下さるかと言う事だけを、語ってまいりました。ところが、「それは律法主義だ」という批判を、多くの牧師から受けてきました。彼らにとっての「信仰」とは、生けるキリストの全能に対する信頼ではなくて、彼らの思考の働きにすぎないのです。いいかえますと、彼らは、みずからの理性の円周の中から、一歩も出ようとはしないのです。それは、自己自身からの脱出は不可能であると、固く信じているからです。それが彼らの信仰であって、生けるキリストへの信頼でも何でもないのです。彼らにとって、いけるキリストとそのみわざというようなことほど、危険なことはないのです。
エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼等とともにいて行われたことを、みなに報告した。〔使徒15章4節〕
〔金田福一著 霊想の糧より〕