平成29年8月13日週報より

自分には、罪やみにくさなどないかのように、取りつくろって生きることは、偽善であって、信仰ではありません。神の子達は、おのれのみにくい人間性を、取りつくろったり、弁解したりしないで、いつでも自由に、自分をさらけだして生活いたします。それが、人間の真実と言うものです。どうしてそのように真実でありえるのでしょう。イエスさまの愛の中で、全ての罪が赦されているからです。罪を赦されてのみ、人間は、真実であり得るのです。そこにおいて、牧師もまた、おのれのみにくさと無能とを告白して、ぶざまに悔い改めることが出来るのです。しかし、権威をどぶに捨てた、ぶざまな悔い改めこそ、無限の祝福が始まるのです。

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」〔第二サムエル12章13節〕

〔金田福一著 霊想の糧より〕