創世記4章26節『セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。』
この箇所は『主の御名によって祈った。』というよりも『主の御名を汚した。』つまりヤーウェの御名を冒涜することを始めた、と理解する方が妥当だということで、皆さんにはそのように私はお伝えしてあります。ただ、多くの注解書とか解説書では、それとは正反対の先ほど話したような公的な礼拝が始まったと。この時から定期的に礼拝を捧げるようになったというふうな理解が多いと思います。でもそれには無理があるということです。問題もあるということを皆さんには指摘しておきたいと思います。
そして、そのことをまた適用したいと思います。私たちに当てはめて、これは私たちにとってどういう意味を成すのか。私たちはこの話を聞いてどのように関連付けていくのか。適用、これが重要であります。ただ聞いて「あぁ、そうですか。」で終わるんじゃなくて、適用が一番大事です。これをもって私たちはどうすべきなのか、どうしなければいけないのか。御言葉は、聞くだけで終わってはならないものです。御言葉を実行する者になりなさい、というのが神の御心です。(メッセージから抜粋)