自分の罪に気づくと言う事は、良心が健全な活動をしている証拠です。義認の確信は、良心の働きを終結させるものではありません。むしろ、救いの体験によって、良心が健全な活動を開始するのです。義認は、良心の平安であると同時に、良心の活動の開始なのです。故に、「赦されている」という確信を持ちながら、日々に自分の罪に気づき、悔い改めると言う事が起きるのです。彼の感謝が常に新鮮であるのは、罪の赦しが、日毎の経験であるからです。この点がしっかりしていないと、赦された後の罪の問題で、必ず行き詰まります。打ち砕かれるということは、自分の罪に気づくことに他ならないのです。
ペテロがどのような死に方で、神の栄光を表すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペテロに「わたしに従いなさい」と言われた。 ヨハネ21章19節
〔金田福一著 霊想の糧より〕