「この卑しいはしために」と言う言葉は、決して、卑屈な言葉ではありません。それは、自分の無価値な事を、本当に知った魂の、謙遜の底から出た言葉なのです。「この卑しいはしために、主がお宿りくださった」と言う感動と驚きに、マリヤは涙を流し、打ち震えました。マリヤのその感動は、今日のキリスト者にも、そのままに継承されているのです。今日も、主がお宿りなさる魂はおのれの義や価値を確信している、傲慢な魂ではありません。おのれの罪と無価値とを知って、謙遜の底に手をついて、涙を流す魂なのです。主は、そのような魂に、慈しみ深くご内住なさり、そして彼を、お用いなさるのです。
ほんとうに、私は主のはしためです。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。〔ルカ福音書1章38..48節〕
〔金田福一著 霊想の糧より〕