平成29年7月9日週報より

本当の信仰生活は、自己認識から出発いたします。自己認識とは、自分の罪に気ずくことです。主と供にあるキリスト者が謙遜であるのは、いよいよ深く、自分の罪に気づく者とされているからです。自分の罪に気づくということも、絶対に、自分でできることではありません。イエスさまが私の前にいて下さると、ハッと驚いた、その驚きから始まるのです。イエスさまの光の中に生きるものとされてこそ、自分の罪とみにくさは、いよいよ深く分かるようになるのです。それで、「救い」とか「回心」とか、「聖霊経験」とかいわれることは、本当に、自分の罪が分かるようになることでもあるのです。

彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるにふれたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」〔イザヤ6章7節〕

〔金田福一著 霊想の糧より〕