今日はキリスト教の葬儀についてお分かちしていきたいと思います。私たちは皆死ぬものだという事は、先程も繰り返しお伝えしている通りであります。100%の確率で私たちは死ぬわけです。生まれた途端に、もう死が始まっていくわけですけれども、「でも自分は例外だ。」と、どこかで勝手に思い込んでいるのが、私たちの愚かしさであります。人は死んでも、自分はまだ死なない、当分死なない。人の葬式に参列しても、それが我が事とはなかなか思わないわけであります。しかし、私たちは皆、死に向かっているわけです。年齢順とは限りません。年寄りから先に死んでいくのではないのです。若い人が突然亡くなることもあります。子供が死ぬこともありますし、「人生これからだ。ちょうど折り返し点に来たばかり、老後をこれから楽しもう。」その矢先に突然死んでしまうことがあるわけです。ですから私たちは常に死を覚悟し、そして死ぬ備えを着々と進めていく必要があります。(メッセージより抜粋)
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