しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。コリント人への手紙 第1 1章23節
週報ショートメッセージ
私達は、神様の前に、深く自分に絶望します。それは、自分をよう捨てないし、自分を十字架にようつけないからです。自分を捨てるとか、十字架を負うと...
記事を読む
イエス様は、自分への愛と、隣人への愛とを、仲良く共存させよといわれたのでしょうか。そうではないと思います。ほんとうに真剣に、純粋に、暖かく清...
私達の心の底にあるものはなんでしょう。自分自身への愛でしょうか、隣人への愛でしょうか。「心の底に横たわっているもの」それは、人間の本質とも言...
キリストの救いは、人間の真実の回復です。聖霊によるきよめの経験のすすめが、もしも、人間の真実を見失わせるものであるとしたら、私は、反対せざる...
自分には、罪やみにくさなどないかのように、取りつくろって生きることは、偽善であって、信仰ではありません。神の子達は、おのれのみにくい人間性を...
信仰が、恵と祝福に変えられた一瞬を経験した神の子たちは、「押しつけ、揺すりいれ、」と言う言葉を、自分の実感として、理解したはずです。それは、...
主が生きておいでになるということと、自分が救われているということが分かった日の夕食の時、私は横に一枚の座布団を置いて、「ここはイエス様の席だ...
私は役員をしていた頃、牧師に不満を持ち続けました。心の中にはいつも、牧師に対する批判がありました。後になって気づいたことは、不満と批判は、傲...
本当の信仰生活は、自己認識から出発いたします。自己認識とは、自分の罪に気ずくことです。主と供にあるキリスト者が謙遜であるのは、いよいよ深く、...